このコツをつかめば、、
外国語を勉強していたのに続かずに諦めてしまった、ということはありませんか?本書は、習得まで外国語を学び続けるためのコツを、外国語学習の達人たちや著者の経験を取り入れながら書かれています。外国語の学習を始める際に読んでおくと、学習や習得に対する意識が変わります。
著者曰く「外国語を習得する上で大事なことは、努力を惜しまないこと」。あらゆる言語は語彙と文法から成立しているので、それらの理解は必要不可欠です。言語についての考え方や自分がどのレベルまで上達させたいのか、それにはどれほどの努力が必要か、改めて考えさせられる良書です。
目次
1 はじめに 外国語習得にはコツがある
2 目的と目標 なぜ学ぶのか、ゴールはどこか
3 必要なもの 語学の神様、はこう語った
4 語彙 覚えるべき千の単語とは
5 文法 愛される文法” のために
6 学習書 よい本の条件はこれだ
7 教師 こんな先生に教わりたい
8 辞書 自分に合った学習辞典を
9 発音 こればかりは始めが肝心
10 会話 あやまちは人の常、と覚悟して
11 レアリア 文化・歴史を知らないと…
12 まとめ 言語を知れば、人間は大きくなる
あとがき
はじめに―外国語習得にはコツがある
語学は苦手――私の確信
私は語学が苦手である。論より証拠、中学では英語でずっこけたし、旧制高校ではドイツ語でえらい苦労をした。そして、やっと入った大学は一年延長したにもかかわらず、専攻のロシア語でロシア文学を楽しむなどという醍醐味はついぞ味わったことがなかった。
まわりの友人を眺めると、中学時代から英語の小説をどんどん読んでいた奴もいれば、あっという間にドイツ語をマスターして、どうしてこんな構文が理解できるのかというような長い文をいとも軽々と読みこなし、結局哲学の教授になった友人もいる。大学時代も私がCと書いてエスと読むとか、Rのうらがえしの文字Яがあるなんてびっくりしているうちに、レールモントフの『現代の英雄』を読みあげた奴や、どこがどうつながっているか文の構造を考えるだけで精一杯の私を尻目に、プーシキンは『オネーギン』がいいの、『青銅の騎士』がどうのと大論争を展開する仲間がいた。「どうしたことかそのあと言語学を勉強する破目になって、さらに別な大学へ行ったけれど、そこでは一層みじめになっただけである。フランス語で読まされたイェムスレウの『プロレゴメーナ』など何がなんだかさっぱり分からなかったし、エラスムスの『愚神礼賛』の試験はラテン語の辞書と文法書の持ち込み可でも全く手が出なかった。横文字だけではなく、『韻鏡』(中国語の音韻の音節表)の授業も何をやっているのかさえ分からなかった。
それに、絶望的におできになる先生方がいらっしゃった。古代ギリシャ語の先生だと思っていた方が三百頁もあるロシア語の本を三日ほどで読みこなして、「ねえ、君、一八六頁の例文おかしいね」とかいわれると、その本を読むだけでも一カ月は必死だったが、やっと読み上げてその先生のところへ顔を出すと、「あれねえ、この方がもっと面白いよ」と、別の本を差し出されるのである。また、もう一人の古典語を専攻しておられるはずの先生が「古代教会スラブ語」を教えて下さって、葉書はポーランド語で下さるというに及んでは、まさに絶句以外のなにものでもなかった。私は、ただただ目を見張るだけであった。
このあともまわりの先生方や友人を見るたびに、才能があるというのは違うものだなと感心して、自分は語学が苦手であると確信したのである。
何カ国語もマスターした人々は
私としても、手をこまねいて眺めていたわけではない。語学が素晴らしくできたという人の伝記を読んだり、先生方の話をうかがって語学上達のヒントを得ようと努力した。だからシュリーマンの『古代への情熱』は愛読書の一つで、シュリーマンがつぎつぎと外国語をモノにしていくところは繰り返し読んだ。世の中には何カ国語も軽くマスターしていく人がいるのに、何一つ自由に使いこなせない自分が歯がゆかったけれど、それでもそういう人たちの話を読むのは快感を覚えるものである。そんなわけで、何カ国語もをマスターしたという話をきくと、その人の話をむさぼり読んだ。例えば東洋文庫(平凡社刊)に入っているヴァーンベーリの『ペルシア放浪記』もそのような本の一冊である。
今になって振り返ってみると、何カ国語もマスターした人々の間にはいくつかの共通の特徴があり、多くの言語を習得した人が守らなくてはいけないルールがあることに気がつくが、当時としてはそれが何であるかは分からなかった。そんなわけで「ポリグロット」(多言語使用者)の伝記は数多くの言語を習得しうるヒントを含んでいたのに、自分ではそれに気がつかなかった。しかし、そのヒントに自分で気がついてからは、伝記の中の人々もちゃんとそのヒントを守っていた、すなわち、それらのヒントが正しかったことを保証してくれた。このようなヒントとはどんなものであるかを、私はこの本の中で述べようと思っている。
才能の差、習得の方法
こういう外国語上達法のコツについて考えたのは、当然のことながら私が一番最初ではない。私がこのような本を書こうとしたきっかけになり、大きな支えになったのは、あるときに読んだ一冊の本の中の次のような主張である。
「大多数の人々は生涯で一つあるいは二つの外国語を長い時間をかけて学 び、それにもかかわらず自分の学習を終わらせることが実際上できないのに、一方ではたとえ全体の一パーセントにも及ばないにせよ、四つ五つあるいはそれ以上の言語を知っていて、それで読んだり、話したり、さらに 次の外国語をいとも簡単に学ぶ人たちがいることに気がついて、これはどういうわけなのかとお考えになったことはないでしょうか?いったい、これはどういうことなのでしょう。それは才能さ、とおっしゃりたいのでしょう。ところが違うのです。その人たちは、外国語を速く学ぶにはどうしたらいいかに気がついた人なのです」
(イジー・トマン著『どのように勉強すべきか、とりわけ外国語を学ぶにはどうしたらいいのか』@ Jiří Toman : Jak studovat a učit se cizím jaztykům. Praha, 1960)
もちろん、各人に才能の差があることは明らかである。私もこれまで何度、才能の差をみせつけられてきたことであろう。しかし、もし才能だけが問題で あるとしたら、日本へ来る神父さんや牧師さんはなぜあんなに上手に、しかも例外なしに上手に日本語を話すのであろう。これらの人たちは、その職につく前にすでにもう才能に基づいて選ばれているのであろうか。それとも、この人たちは外国語を習得する秘密を知っているのであろうか。私は、あとの方の主張に賛成である。
繰り返していうが、才能の差はある。しかしある言語を習得できるかどうかは、その習得の方法に、より多くのことが依存している。それだからこそ、ロンドンの人はたとえ上手下手の別はあっても例外なしに英語を話し、パリの人はフランス語を話すのである。ただ外国語となるといささか様子が違うが、それでも本質的には同じである。
バイリンガルは無理でも
もっとも外国語を習得するといっても、二つの言語をほぼ同じようにマスターするという狭い意味での「バイリンガル」は話が別である。このバイリンガルについてはいずれどこかで書くが、バイリンガルには才能(実はこれが必要である)の他に、さらに環境が必要になる。ご自身がフランス語とオランダ語のバイリンガルであり、そのほか英語も、日本語(それもいくつかの方言まで)も見事に話されるグロータース神父が書かれた面白いエッセイのおちである、
「さて、これまで言語について大学生たちに講演をする機会があるたびに、私はいつも『外国語をおぼえるコツを教えましょうか』と申し出たものです。学生は皆、喜んで鉛筆をもって構える。そこで私はおもむろに宣言します。『親を選ぶことです!』」
(『言語』1976年10月号)
という一文は、明らかにその事実を伝えている。このエッセイは面白いので一読に値するが、ここで明らかに示されていることは狭い意味でのバイリンガル、すなわち、二つの言語をほとんど同じように話したり、書いたり、読んだりすることは努力によって達せられるレベルではないということである。
バイリンガルは無理だとしても、書かれたものを辞書を引き引き読んだり、どうにか手紙を書いたり、自分の得意とする分野でなんとか話が通じたりするくらいのレベルなら、よく目にするところである。そして、もっと上手に自分のいいたいことをなんでも外国語でいえる人、また文学作品を読んで喜びを感ずる人がいるのを見るのも、そう珍しくはない。さらに、詩を読んで分かる人とか、同時通訳ができるという人までいることも、少数ではあるが、われわれは知っている。すなわち、語学の習得にはいろいろな程度があることが分かる。外国語を上手に読み書きし、スムーズに会話ができる人たちのいることは、われわれにとってははげみであり、具体的な目標があるという嬉しい現象なのである。
忘れることを恐れるな
さて、中学、高校、大学と語学の習得に苦しみ抜いた私の方はどうなったで あろうか。正直にいって、私はこれまで楽に外国語を習得したという経験は一 度もない。現に今でも、苦しみながら新しい外国語に挑戦している。ある人が「語学の習得というのは、まるでザルで水をしゃくっているようなものです。絶えずしゃくっていないと、水がなくなってしまいます。水がどんどんもれるからといって、しゃくうのを止めるとザルははぜてしまうのです」といっているが、これは真実であろう。語学の習得で決して忘れてはいけない一つの忠告は「忘れることを恐れるな」ということである。
忘れるし、よく覚えないからといって外国語の学習を始める前からあきらめる人には、70歳を過ぎた今日でも毎年一つは新しい外国語をものにしておられる私の恩師の話を伝えることにする。「いや、もうだめですね。覚えるそばから忘れていきますよ。見事に、きれいさっぱりです。私たちが若い人たちに対抗していく唯一の手段は、何度も何度も繰り返すしかありませんね」といいながら、先生は一年たつとその言語を習得しているのである。
人はよく、もし忘れなかったらいいのにと考えるようであるが、忘れられるということがどんなに大切であるかは考えないようである。私のもう一人の恩師はドイツ語教師の家に生まれ、若いときから猛然としかも徹底的にドイツ語 を仕込まれたために、次の外国語を勉強するたびにドイツ語が邪魔をするのを嘆いておられたが、私にはそんな心配はない。恐らく読者の皆様も同じであろう。
語学は不得意、だが成果はあった
人生の折り返し地点に近づいたとき、「あなたは外国語が得意だから……」といわれて唖然としたことがある。そして、そのようなことをいわれる回数はしだいに多くなり、さらに「あなたはポリグロットだから……」とまでいわれて、一体これはどうしたのであろうと考え込んでしまった。こういわれる理由の一つは、私がたまたま大学で言語学を担当していることにもその一端がある。
近年、言語学という言葉が人々の口の端にのぼる回数は明らかに多くなっていて、本屋さんには言語学のコーナーのあるところまである。そして、言語学が何やら最先端の学問のように思われている。かつて私たちが言語学を学んだとき、ごく少数の人数で講義を聴いたのとは違って、今では大きな教室が、少なくとも新学期には一杯になる。そこで、このような学問をしている者はきっと数多くの言語ができるに違いない、と思われているらしい。このことは「言語学をなさっているのですから、きっとたくさんの外国語がおできになるのでしょうね」とか、「一体いくつの言葉を知っていれば、言語学ができるのですか」というような質問にあらわれている。
なるほど、私の先輩の言語学者の中には本当によくおできになる先生方がいらっしゃるし、言語学担当の教官でポリグロットの方もいらっしゃる。しかし、私はそうでないし、語学の習得が下手なことは、誰よりも自分がよく知っている。しかし、何回か同じようなことをいわれて考え直してみたとき、いつの間にかいくつかの外国語が使えるようになっている自分がいることを見出して苦笑してしまった。
考えてみると、英・独・ロシア・チェコ・スロバキアの五つの言語には翻訳されて活字になったものがあるし、外交官の語学養成機関である外務研修所で教えたことのある言語も、ロシア・チェコ・セルビア・ブルガリアの四つがあり、このほか大学では古代スラブ語を教えている。さらに辞書を引きながら自分の専攻の分野の本を読むのなら、フランス語、ポーランド語と、そのレパートリーは拡がっていく。それに国際会議の場での通訳の経験もかなりあるし、ほんの数回だが同時通訳の経験もある。こうみてくると、たしかに日本人としては語学が得意といわれても仕方がないのかもしれない。
しかし、何度も繰り返すようで恐縮だが、私は本当に語学が不得意なのである。今ここで、いろいろな言語を使って仕事をしたことがある、と日本人のわれわれの世代では本来決してしない自慢めいた話をしたのは、ひとえにこれから私が述べる語学習得のコツが机上の空論ではなく一定の成果があったことを示すためにほかならない。
コツを知って実行すれば
振り返ってみると、三つ目か四つ目の外国語から、なんとなく先が見えてきたような気がする。そして、長い時間をかけ、ひどい廻り道をして、語学習得 のコツを知らず知らずに身につけてきたように思える。いま自分がコツだと思っているものが単なる思いすごしでないことは、このコツが分かってきてから教えた人々の外国語習得の効果が目に見えて上がってきていることが証明している。
大学のように、学習を目的としてそのために選ばれてきている人たちが集まっている所での授業ではいい効果が期待されるのは当然として、聴講者の年齢、性別、才能、学習時間に大きな差のあるカルチャー・センターその他で、かつて自分がひどく苦労して身につけた外国語を人々がたいした困難なしに習 得していくのを見るのは楽しいものである。年間八カ月、週一回、土曜日の午後一時間半の講習で、2~3年のうちに、チェコ語のように変化の多い言語を どうにか読めるようになるのだから不思議である。
外国語の習得には、それを知っていれば、それを知らずに苦労し、揚句の果てに学習が未完に終わる恐れのある学習のコースをずっと楽にするようなコツがある。このコツを知ってそれを実行することが大切で、このコツを知るか知らないかは、その個人の持つ才能の差よりはるかに大きいように思える。
グルジア語だって難しくない
非常に難しい言語だといわれているカフカス(コーカサス)のグルジア語の 入門書『グルジア語の基礎』(V.A. Cerny: Zaklady gruzinstiny. Praha, 1975)を書いたチェルニー博士は「グルジア語はそんなに難しくない!」というユニークな題の序文で、次のように書いている。
「さて、本当のことをいえば、グルジア語は易しい言語ではない。すべての音を正しく発音するには――一定の訓練が必要であり、形態論はとてつもなく豊かなので、すべての文法上の変化形を数え上げることができないほどである。しかも、そこで使われる形はわれわれにはなじみのないものなので、一見まず非常に複雑に見える。それに、統辞論にもわれわれヨーロッパの言語の話し手には理解し難いものがあり―そのうえグルジア語の持つ稀に見る豊かさを考えあわせると、まずはビックリせざるを得ないのである。しかし、一方、そうはいっても、それほど絶望的ではない。グルジア人といってもわれわれより頭が大きいわけではなし、グルジアの子どもはわれわれの子どもが母語を覚えるのと同じくらい速くグルジア語をマスターする。だから違っているのはどう見てもどれほど違っているかで はなく、どのようにという点にある。ここに鍵があるのであって、それに気付きさえすれば、グルジア語の持つあらゆる難しさは雲散霧消し、なんだこの言語だって他の言語と同じじゃないか、ただせまり方が違うっていうことさということになる」
すなわち、この本の著者も外国語の習得にはコツがあるといっている。ただ、ここで述べられたコッは言語学的コツについてであり、私がこの本で述べようとしているのは、言語学的コッだけではなしに言語学以外の分野の語学習得のコツも含んでいる。
第一章を閉じるに当り、もう一度整理すると、外国語の習得にはその習得を容易にするコツがあり、まずそのコツを知ることが大切である。以下に、そのコツについて述べることにする。そして、もう一つ大切なことは、覚えたことを忘れることを恐れてはいけないということである。