外国語はどこに記憶されるのか―学びのための言語学応用論 (開拓社言語・文化選書)

言語知識と記憶のかかわりから,外国語学習への知見

認知科学の観点から、外国語知識の特徴や保持と忘却について考察を深めていくことができます。英語教育関係者や研究者向けに書かれた本ですが、現代の英語教育に関して興味のある方にもおすすめできる一冊です。

まえがき

多くの日本人にとって外国語は,その昔,学習をした記憶が残る気にかかる存在である。数学や理科で暗記した公式や化学式,古文で学んだ古語を忘れてしまっていても,教科教育にものを申す人は少ないが、英語科に対しては態度が一変する。

英語教育への批判は大変厳しいものがあり、8年間英語を学んでもなにも残ってはいないと,時にはその存在意義までも否定されることがある。一部の知識人が苦言を呈するように,英語力の向上は,国に繁栄をもたらし、人々を国際舞台へと導く道筋となるのであろうか。

外国語を母語のように運用するためには、目的に合わせた教授法や学習法が必要であり、それを支えていくものは、ことばへの情熱と学習を辛抱強く継続させる精神力である。

難関大学入試突破,留学目的,就職,学習者自身の努力で重い扉を開く学習法に巡り会い、夢を叶えることができたかもしれない。しかし、一様に、失った英語の不満を口にする。

それは紛れもない真実で、彼らの作った雪のうさぎは、赤いナンテンの眼を残して溶けてしまったのである。淡雪を与え,雪を固め続けていかなければ、幻のうさぎに過ぎない。

ビジネス,外交,学術,文芸,これらで使用される外国語の獲得に向けた新たな学習を積んでいたのであろうか。外国語が使えると,胸のうちを納得させる日は、いつ巡ってくるのか不確かである。

本書は,人間と記憶のかかわりから,外国語が脳内でどのような変化,変身を遂げていくのかを,最新の認知科学の知見を援用しながら追跡していく。また,日本の環境下での外国語学習者に寄り添った考察を心掛けることとする。

脳科学と外国語学習の関連については,今後も新しい発見や解釈,修正が次々と提唱されると考えている。医学的な根拠を持つ比較的安定した学説を基礎としたが,一つの可能性としてとらえてほしい。

本書の枠組みである言語学応用論は,言語を習得・学習,回復・再学習する者の立場から、言語学の貢献を考究する新しい独自の分野である。言語を獲得する上で生ずるさまたげや,諸課題を解決するために,学習者の視点に立って言語学理論を援用する臨床言語学の立場をとっている。その上で,学校教育臨床研究の精神に則って、外国語学習のあり方を世に問うてみたい。したがって、言語学理論(文法論)を、真理として高みから提供する一般的な応用言語学とは、視座と姿勢が異なっている。

母語および外国語の音声,文字とつづり、語彙,構造,運用面の習得過程や,発達段階の困難性の原因と解決策は、『学びのための英語学習理論』,4技能の獲得に向けた学習段階(レディネス)に応じた具体論は,『学びのための英語指導理論』,これら和書の理論的根拠としている習得・学習理論と指導理論の実証研究は,Chunking and Instruction(いずれもひつじ書房)で詳述をしたので,必要以上の重複は控えることにする。また,意味,概念・心的表象の獲得と思考や言語に対する論考は,本書での必要性を十分認識してはいるが,執筆準備中であるため検討を加えていないことをお許しいただきたい。

学習者にとって、外国語を学ぶこの瞬間,その歳月は生涯に一度きりで,「時」は刻み続け,後へ引き返すことはかなわない。本書が,時間と記憶の繋がりを自覚するための一助となることを切に願っている。

学習したはずの外国語は、なぜ,どこへ姿を消したのか,雪のうさぎの行方を,遠い記憶を頼りに脳内へ探しに出かけよう。

2012年10月
中森誉之

目次

まえがき
序章 外国語学習への不思議
はじめに
1. 子供の発音が上手に聞こえるのはなぜか
2. うっかりした誤りはなぜ生ずるのか
3. 単語を暗記しても会話や作文で思い出せないのはなぜ
4, 読むことはできるのになぜ話すことができないのか
5. 英語には丁寧な言葉遣いはないのか
6. 外国語学習の低年齢化は効果があるのか
7. 人はなぜ、違う言語を学ぶことができるのか

第1章 ことばの萌芽
はじめに
1.生成主義言語学と認知言語学による言語習得理論
1.1. 普遍文法と生得的な言語習得装置
1.1.1. 生成文法
1.1.2. 言語習得装置の値の設定
1.1.3. 第2言語習得理論
1.1.4. 意味概念と言語構造の結び付け
1.2. 文脈・場面中の言語使用
1.2.1. 認知文法
1.2.2. 用法基盤モデル
2. 言語知識の獲得
2.1. 語彙・表現形式
2.2. 文法・構造
3.接触頻度と言語発達の関連性
3.1. 母語環境
3.2. 外国語を繰り返す度合いと記憶の再生
3.3. 高頻度語彙
Column赤ちゃんの持っていることばの種

第2章 記憶されていく外国語
はじめに
1. 人間の記憶のしくみ
1.1. 短期間の保持と知覚した情報の処理―作業記憶の音韻ループー
1.2. 長期間の保存と再生一顕在記憶と潜在記憶―
2. 語彙と文法の知識
2.1. 暗黙知と形式知
2.2. 語彙知識
2.3.母語の文法知識
2.4. 外国語の文法知識
2.4.1. 生成主義言語学による文法知識の解釈
2.4.2. 認知言語学による文法知識の解釈
3. 記憶の脳内基盤
3.1. 母語の言語知識
3.2. 外国語の言語知識
3.3. 脳科学からの知見が外国語学習に意味すること
Column2 記憶される記憶

第3章 記憶された外国語の活性化・
はじめに
1. 学習の始まり
1.1. 注意・注目の対象
1.2. 入力刺激の関連性
1.3. 第2言語教育と気付き
1.4. 外国語学習と気付き
2. 気付きと作業記憶
2.1. 作業記憶の処理限界
2.2. 注意・注目の影響
3. 言語の処理過程
3.1. 自動処理と制御処理
3.2. 顕在記憶と潜在記憶
3.3. 「脳内の翻訳機」と語順
4. 外国語学習者にとって難しい助詞,冠詞や語尾変化
4.1. 気付かない誤り
4.1.1. 頻度と際立ち
4.1.2. 気付かない誤りの調査
4.2.意味概念と臨界期の存在
4.3,言語習得装置と臨界期
4.4. 言語運用と文法理論の限界
4.5. 構造言語と膠着言語
Column 3 音声を見る

第4章 記憶されている外国語の安定化と保持
はじめに
1.記憶の保持方策
1.1. 反復練習と暗記
1.2.語彙のネットワーク
2. 表現形式の再生・活性化
2.1. 母語干渉
2.2. 暗黙知と形式知への誤りの影響
3. 技能の獲得
3.1. 熟達
3.2. 外国語の習熟
3.2.1. 入門期から初級段階
3.2.2.中級段階以降
4. 文法の位置付け
4.1. 文法訳読法
4.2. 学習環境に応じた外国語の文法
4.3. 第2言語と外国語の相違
5.心のメカニズムと外国語学習の促進
5.1. チャンクによるアプローチ
5.2. 運用能力育成のための文法学習
5.2.1. 文法教材
5.2.2. 習熟に向けた教材の要件
5.3. 大学生・社会人の語彙・文法学習と自律
5.4. TOEIC® » TOEFL®
Column 4 グローバル化時代のブロークンなエーゴ

第5章 記憶に沈殿していく外国語と消滅する外国語
はじめに
1. 小学生の外国語学習と記憶
1.1. 思考の特徴と学習環境
1.2. 子供の外国語学習と諸課題
1.3. ことばの習得過程
1.4. 母語同一化音声処理の危険性
1.5.音声的な際立ちと弱形
1.6. 文字とつづりを支える音声
1.7. 外国語の文字体系と学習段階
1.8. 音声による表現形式の学習
1.9. 学校教育臨床からの示唆
2. 中学生以降の外国語学習と記憶
2.1. 母語同一化音声処理の回避と解決
2.2. 文字の認識
2.3.文字とつづりの困難性
2.4.語彙の貯蔵と忘却
2.5.文法規則の記憶
2.6. 運用能力の育成
2.7. 期待される語用論の貢献
Column 5 英国人は靴を見る

終章 日本の外国語学習のすがた
はじめに
1. 外国語学習と教育実践者
2.教育環境の正視
3. 意欲的な外国語学習

推奨文献
あとがき
索引