もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか

なぜあなたが英語が話せないかがわかる小説!

英語の勉強を一生懸命しているのに全く英語ができるようにならない、中学高校の6年間勉強していたのに結局英語が苦手なままだと感じたりすることはありませんか?本書では、現在の英語教育とは違う、もっと英語が楽しくなるような視点を教えています。

目次

一章 私たちは英語を話せない
二章 私たちは英語の話し方を知らない
三章 私たちは英単語を知らない
四章 私たちは発音ができない
五章 私たちは動詞が使えない
六章 私たちは形容詞が使えない
七章 私たちはリスニングができない
八章 私たちは疑問文ができない
九章 私たちは英作文しかできない
終章 私たちは英語を話せるようになる
あとがき
文庫版刊行にあたってのあとがき

登場人物

桜木真穂
物語の主人公。星心中学校英語教員。ただし英語は「読み書き」専門で、「聞けない」し、「話せない」。今後、「英語で授業をしなければならない」ことに、憂鬱で仕方がない。
葛城有紀
『吉原龍子 英会話教室』の「受付兼日本人講師(仮)」。生徒想いで、真穂の最大の理解者となる。英会話歴三年
吉原龍子
『吉原龍子 英会話教室』の学院長。また、剣道と柔道も師範代の腕前。
阿蘇虎牙
英語科教員。学年主任と柔道部顧問も務めるベテラン。
月島葵
三年三組において、真穂の唯一の味方。成績も優秀で、特に英語は学年でもトップクラス。
小山祐士
野球部の左腕エース。甲子園常連校の星心学園のスポーツ推薦枠を勝ち取るため、日々練習に励む。勉強は大嫌い。
阿部祐介
科学部に所属する小柄な少年。全体的に成績が悪く、中でも英語が苦手で、成績は絶えず「1」。不良にも絡まれるイジメられっこ。
青木千賀子
真帆の同僚で英語科教員。ニューヨーク生まれで、十二歳まで現地で過ごす。もちろん英語力はネイティブ並み。
山形心平
真穂の同僚で、社会科教員。野球部顧問。日本史が専門で、特に幕末には明るい。
藤川瞳
『吉原龍子 英会話教室』の受講生。シングルマザーで、一人娘のために、英会話の勉強を始める。

金沢 優 (著)
出版社: 幻冬舎 (2018/5/7)、出典:出版社HP

一章 私たちは英語を話せない

1「……私さ、やっぱり大丈夫かなって。二〇二〇年から」

私、桜木真穂が勤める星心中学校は、埼玉県寄りの都内にある。今までに一度異動を経験し、この学校は私にとって二校目に当たる。
「So, what t up, Maho? You look a little down.」
職員室に入ってきた同僚の青木千賀子は、そう言って私の隣に座った。黒髪のショートヘア、丸くて大きな目、赤くて大きい頬。小柄ながらもどっしりしたその体型は、まるでくまモンみたいだと、いつも思う。
私と同い年で二十八歳の彼女は、生まれてから十二歳になるまでなんとニューヨークで過ごしたらしい。

この類の話を聞くと、言葉が悪いが、私は「ズルいな」と思ってしまう。生まれた場所がアメリカで、しかもニューヨークだったなんて幸運がどこに転がっているのだろう。そして、どうして私は埼玉のど田舎生まれだったんだろう。本当に人生はアンフェアだと、千賀子のネイティブ発音を聞く度に思う。
ちなみに私の中で『英語エリート』という四つのグループが存在する。まずは千賀子のような帰国子女たちで、やはり幼い頃から英語に慣れ親しんだというのは無敵のアドバンテージだ。私が田んぼでオタマジャクシを追いかけていた時、彼らは地球の裏側で日々生の英語を聞いて、日々生の英語を話していたのである。この差は計り知れないほど大きい。

そして二番目は親が外国人というケースだ。もちろんこれにはハーフの人も含まれる。たとえ国内であっても、家庭の中では英語を交えながら育ったので、海外で生活していたものと全く同様の効果が得られるはずである。
三番目は長期間に渡って英語圏に留学した人たちだ。強い決意を持って海外に渡り、苦労して英語をマスターしたのだから、その勇気と努力は素晴らしいと思う。私にはできなかったことだ。
そして最後は恋人が外国人というケースだ。恐らく国内にいながら、これほどコストパフォーマンスに優れた英会話習得の道があるだろうか。ほぼ毎日がプライベートレッスンみたいなものではないか。心の底から羨ましい限りである。

そして千賀子はその『英語エリート』の一人に当たる。もちろん、英語力には雲泥の差があるので、英語で話しかけられても、私は気恥ずかしさから、すぐに日本語に崩してしまう。
「Maho? What are you thinking?」
「…….私さ、やっぱり大丈夫かなって。二〇二〇年から」
千賀子は「えー、またその話?」と表情を曇らせた。もうこのやり取りに飽き飽きしているのだろう。そう、私は以前に文部科学省から発表された、二〇二〇年に向けての英語教育の変革内容を聞いてから、毎日が憂鬱で仕方がないのだ。

その変革内容とは、小学校三年生から英語が導入されることや、センター試験が廃止される代わりに英検やTOEFLなどの外部試験が採用されることなど多岐に渡る。ただ、何よりも私にとって衝撃的だったのは、『中学校の英語の授業は基本的に英語で行われるようになる』ということだ。私はそれを知り、目の前が真っ暗になった。何故なら、私はもちろん英語には自信はあるものの、それは『読み書き』限定だからである。生徒の前で英語で授業をするなんて高度なこと、私には到底できそうもない。

もちろん今でも週に何度かは外国人の ALT(アシスタント・ラングエッジ・ティーチャー)と一緒に授業をすることもあるが、その際、私は極力存在感を消すようにしている。発言しても、指示内容の確認だったり、連絡事項の伝達など、最低限に留めている。迂闊に喋って、私のスピーキング能力の低さを生徒の前で露呈したくないからだ。
「大丈夫よ。だって、二〇二〇年までまだ数年あるわけでしょ? 毎日少しずつ英語を喋っていたら、いつの間にか話せるようになるって」
千賀子なりに励ましてくれているのだろうが、残念ながら、そのようなアドバイスは、今までに周りから飽きるほど聞いてきた。

「それにね、結局は私、日本語で授業することになると思ってるの。だって、あの子たちが英語で説明して内容を分かってくれると思う?だって日本語でもチンプンカンプンなんだよ? 結局は今までのままだって」
言いたいことは分かる。ただ、本当に千賀子の言う通りになるのだろうか。
「青木先生……そりゃあ、どうかと思いますよ」

不意に飛んできた声に、私たちは前方に視線を移した。向かいの席の社会科の山形心平先生が、湯呑みを片手にラックの隙間から私たちを覗き込んでいた。四十代前半という話だが、もう少し老けてみえる。確か生まれは四国のどこかだったはずだ。苗字は思いっきり東北なのに。
千賀子は「どういうことですか? 山形先生」と尋ねた。
「いやぁ、東京オリンピックに向けて、文科省も今回は本気やと聞いとりますからねえ。今後、英語は『使える』ようにならんといけんらしいですなあ、受験でも」

そう言って、山形先生はズズズと音を立てながら、お茶をすすった。
山形先生の言う通りだ。今まで何度も英語教育に変更はあったが、今回は文科省の本気を感じる。ただ、私は疑問に思う。中学校の授業がたとえ英語で行われたとしても、果たしてそれで生徒たちの英語力が向上するのだろうか。正直なところ、そんなイメージが全く湧かない。
その時、職員室のドアがガラリと開き、阿蘇虎牙先生が入ってきた。
「げっ。Asshole だ。もう出張から帰ってきたのか」

千賀子は大げさに表情を歪めて、そそくさと次の授業の準備を始めた。
阿蘇先生は英語科の学年主任で、四十八歳のベテラン教師である。大学時代、イギリスに一年間の留学経験があり、英語は話せるが正直なところ、余り流暢とはいえない。それでも、自分の意見は日本語であってもハッキリと言うタイプなので、英語でのコミュニケーション能力は私よりもはるかに長けていると認めざるを得ない。

そして、特筆すべきなのはその威圧感だ。身長も一八〇センチと高く、プロレスラーのようなその体格は、大学時代に柔道の国体選手に選ばれたという実績を納得させるに十分だった。また、柔道部の顧問もしており、彼のスパルタな指導の下、当校は都内有数の強豪校となった。こうして、日に日に校内の権力を掌握した彼に、表立って歯向かう教師や生徒は皆無だった。そして、それは教頭や校長ですら例外ではなかった。
そんな阿蘇先生のことを、千賀子は陰で『Asshole(お尻の穴=馬鹿)』と呼び、心の底から軽蔑している。彼女はまだ一年前の、例の件を根に持っている。

その日は朝から全校集会があった。連日の過労から、つい居眠りをしてしまった千賀子は、その場で阿蘇先生から公開説教を受け、なんと体育館から途中退場を命じられたのだ。それは屈辱以外の何ものでもなかった。職員室に戻った時、私は初めて千賀子の涙を見た。
「ちょっと早いけど、もう行くわ。息が詰まりそうだから」
千賀子は教材一式を無造作に抱えて、席を立った。阿蘇先生と同じ空気すら吸いたくないのだろう。気持ちは分かるが、いい加減忘れた方が気も楽になるのに、といつも思う。結局、阿蘇先生には永久に、誰も敵わないのだから。
しかし、私はその後ろ姿を見ながら、千賀子のことを羨ましく思った。彼女はたとえ二〇二〇年になったとしても、何の苦もなく英語で授業ができるのだ。そしてその時、生徒たちは羨望の眼差しで教壇に立つ彼女を見つめるに違いない。
英語をペラペラに話せるって、一体どんな気分なんだろう。大空をスイスイと飛び回る鳥みたいなものだろうか。それってなんて自由なんだろう。だとしたら、私は何?それを地上で見上げる牛みたいなものだろうか。モー、やってらんない。草めっちゃ食べてやろう。

私は「ふー」と大きなため息を吐きながら、自分が担任を務める三年三組の出席簿を書類の束の中から探し始めた。二〇二〇年。私の拙い英語を聞いて、生徒たちはどんな顔をするのだろう。呆れるのだろうか。笑うのだろうか。憐れむのだろうか。保護者から「あんな英語の話せない先生に、私の大事な子供を預けたくありません」なんてクレームだって来るのだろうか。その時、私に居場所はあるのだろうか。もしかして私は職業選びを間違えてしまったのかもしれない。
ふと私は、自分の中学生時代のことを思い出した。私の生きる方向が定まった瞬間である。そしてそれは、父との記憶でもある。

2「学校の英語の先生になりたいです」

厳格な父によって育てられた私は、余り褒められた記憶がない。それは私が勉強やスポーツで突出した成績が残せなかったせいもあるが、そもそも父は大の仕事人間で、家にもほとんどいなかった。そんな私は子供ながらにして、「お父さんは自分よりも、仕事の方が大事なんだ」と思っていた。
そして、そんなある日のことだ。私は定期テストにおいて、英語で一○○点を取ってきた。その日、出張帰りで珍しく陽が落ちる前に帰ってきた父は「この子は将来、学校の英語の先生になれるかもしれないな」と、頭を撫でながら褒めてくれた。褒められること自体が久しぶりで、私はとても嬉しかったのを覚えている。そして父はその日の夜、私が大好きだったパイナップルピザをデリバリーするよう、母に指示した。

そして、それから僅か五日後のことだった。私が学校で授業を受けていた時、父が倒れたという知らせを聞いたのは。
急いで病院に駆け付けた時には、既に父は息を引き取っていた。脳梗塞だったらしい。まるで安っぽいテレビドラマのワンシーンのように、手術着の担当医が、私と母にお悔やみを告げた。父の最後の言葉は「真穂、大丈夫。大丈夫だ」だったらしい。私は急に足の力が抜け、その場に崩れ落ち、気を失った。結局、ピザを囲んだあの日の夕食が、家族三人の最後の思い出になった。

それから数週間後、たまたま学校で『将来の夢』について、作文を書く機会があった。作文自体は苦手でいつもギリギリに提出していたが、その時私は何の迷いもなく、『学校の英語の先生になりたいです』とクラスの中で真っ先に書き上げ、担任の先生を驚かせた。その時、私はすぐ右隣に父の存在を感じた。意思を感じた。『夢』なんて甘い言葉じゃなく、残された自分の『使命』だと思った。自分の生きる方向が定まった瞬間だった。
それから先、私は中学校において、英語の学年トップの座を誰にも明け渡さなかった。死んだって渡すものかと思った。それ以降、私は何度も定期テストで一○○点を取ってきては、その日は陽が落ちる前に家に飛んで帰った。

高校は県内有数の進学校に進んだ私は、さすがに英語でトップを取り続けることはできなかったが、それでも優秀な成績を修め続け、都内の教育大学の英語学科にストレート合格した。
合格発表日当日、会場から帰ってきた私は父の遺影の前に置かれていた宅配ピザのお供えを見て、母もまたあの日のことを覚えていたんだな、とその場に泣き崩れた。パイナップルの甘くて懐かしい匂いが、家中にあふれていた。

それなら、こんな私がどうして『読み書き』限定の英語教師になってしまったのか。今まで英会話スクールには通わなかったのか、留学はしなかったのか。人は疑問に思うかもしれない。もちろん、私だって何もしてこなかったわけではない。それこそ、必死にもがいてきたのだ。そんなの、当たり前ではないか。

3「あっ、はい、……アイムファイン、サンキュー。アンデュー?」

大学に入学したと同時に、私はある大手の英会話スクールに入会した。それまでの私の英語に明らかに不足していたもの。それは、『ネイティブとの会話の機会』だった。
当時、私は確信していた。私の英語力は、たとえるのであれば、蕾の付いた樹木だ。あとはネイティブと会話をしていれば、自然と綺麗な花が咲く。受験勉強はそのための『下準備』だったのだ。満開の桜の下、私は今後の英語人生に、期待に胸を膨らませていた。

私は受付スタッフの関口さんと話し合い、有効期限一年のグループレッスン百回コースを申し込んだ。目安としては週二回の通学ペースで、一回当たりの単価は三千円。総額にすると三十万円のオーソドックスなコースだった。
学費は一旦、父が家族のために遺した預金口座から賄われることになった。私は入会と同時にアルバイトを始め、給料をその口座に返していくと母に約束した。もちろん、最終的には自分で支払うことにはなるのだが、父のお金を一旦は使わせてもらう以上、絶対に有意義なものにしないといけない。私は父の遺影の前で成功を誓った。

レッスン初日、私はネイティブ講師とレベルチェックテストを行った。もちろん今まで学校で ALT の授業を受けたことはあったが、こうして一対一のインタビュー形式でネイティブと話すのは初めてだった。始終緊張しっぱなしで、自分の名前の『桜木』を『シャクラギ』と噛んでしまうほどだった私は、結局レベル10まである中のレベル3に振り分けられた。低いとは思ったが、その時はすぐに上のレベルに上がれると信じて疑わなかった。

こうして順調に滑り出すはずの英会話生活だったが、レッスンを重ねる度に、私は疑問を覚えるようになった。そう、どれだけレッスンを受けても『上達を実感できなかった』のだ。
確かにレッスンでは、生の英語を対面で沢山聞くことができた。それに、洋画や海外ドラマに出てくるようなカジュアルな英語表現も沢山教えてもらえた。講師のジョークも面白く、今までの文法や読解中心の学校英語に比べると、はるかに楽しかった。しかしながら、いつまで経っても私の英語はペラペラには程遠く、沈黙や発話のミスは一向に減る気配がなかったのである。

私はその現状にイライラし始めた。何故なら、今まで英語を学んできて、上達を実感しないことなど一度もなかったからだ。勉強した分、偏差値は上がった。英語は決して私を一度も裏切らなかった。
そして、そんなある日のことだ。私はあるサラリーマンの方とレッスンで二人になった。基本的にグループレッスンの生徒数は四人だが、その日はたまたま他の受講生がいなかった。そして、その方は驚くほど英語が流暢で、結局レッスン時間のほとんどを喋り倒し、私はそれをただ、傍観しているだけで終わってしまった。英語であんなに悔しい思いをしたのは初めてだった。

そしてこれはあとで知ったのだが、その方はなんと留学経験者だった。ただ、入会したばかりで、英語のブランクがあったことから、とりあえずレベル3から始められた、とのことだった。
私はその後、関口さんに「留学経験者と同じクラスなんてアンフェアじゃないでしょうか」と苦情を伝えた。しかし、「どうして自分から積極的に会話に入っていかなかったんですか? 聞き手に回っているようでは、いつまで経っても話せるようにはなりませんよ」と、関口さんは私を事務的にあしらった。確かに一理ある。しかし、それができないから、こうやって高額なお金を払ってまでスクールに通っているんじゃないか。私はその対応に納得がいかなかった。

こうして徐々にモチベーションが下がり、スクールから足が遠のくようになったある日、私は母から呼び出しを受けた。
「真穂。この一カ月、英会話スクールに行ってないって本当なの?今日、関口さんという方から電話がかかってきたのよ。入院でもしたんじゃないかって」
私はそのあとの説教に一切反論しなかった。きっとどう返しても、「そんなの、会話に加わろうとしていない、あんたが悪い」の流れになるに決まっている。しかし、その通りでもあった。結局私は「気持ちを改めて、スクール通いを再開する」と約束して、その場を収拾した。

もちろん、通っていなかった間、何もしていなかったわけではない。真面目に大学の英語の授業を受けてもいたし、空いた時間はスクールの教材で勉強したり、付属のCDを聞いたりと、自分なりに勉強を続けてはいた。しかし、ネイティブと話してこその英会話である。上達を実感しようもなかった。
その後、久しぶりにスクールを訪れた私は、関口さんから「このままのペースでは有効期限に間に合わないので、マンツーマンコースに切り替えた方がいい」との提案を受け、驚いた。そんなに長い間、私はサボってしまっていたのか。このままでは授業料を無駄にしてしまう。

「私はコース変更の説明を詳しく聞いた。レッスン単価は約二倍にはなるが、週二回ペースで有効期限内の消化が十分可能となる。また、講師は選べないが、他の受講生がいないため、レッスンに集中できる。加えて、講師も独占できるので、自分の話す時間が何倍にもなるらしい。そこまで聞いたら、私がコース変更を決断するまで、時間はかからなかった。

そして始まったマンツーマンコースは、思った以上に快適だった。やはり一対一はいい。周りを気にせず、レッスンに集中できる。毎回英語力の向上を褒められ、停滞していたモチベーションも上向きになるのを感じた。こんなことであれば、もっと早くからコースを切り替えても良かったと、素直にそう思った。
しかしそんなある日のことだ。私はついにジョーカーを引いてしまったのだ。講師の名前はジェームス。四十代のアメリカ人で、彼はレッスンの初っ端から恐ろしく不機嫌だった。

「Good afternoon. How are you?」
「あっ、はい、……アイムファイン、サンキュー。アンデュー?」
「What’s your name?」
え? 彼の体調を聞いたはずなのに、完全に流されて、私は混乱した。
「え、え……と、マイネームイズマホサクラーギ。ホワッツユアネーム?」
「Can’t you see my name tag?」
そう言って、ジェームスは乱暴に胸元のネームタグを指さした。
「私のネームタグが見 えないのか?」って?そりゃ、見えるけど。
「あ、ソー、ユアネームイズジェームス。ライト?」
「Why are you so interested in my name?」

それからも力強い口調で質問が続き、片言で返す私は、次第に言葉が一つも出なくなった。英語を話す自信が完全に折れてしまったのだ。その後、ジェームスは私が無言になると質問をやめ、自分のことをベラベラと早口で喋り始めた。なんとか聞き取れたのは、彼が今朝、恋人とケンカをしたことくらいだった。残りはほぼ意味が分からず、私は適当に相槌を入れ、レッスンが終わるのをひたすら待った。人生の中で最も苦痛で、屈辱の五十分間だった。

もちろんレッスンの後、私は関口さんに苦情を伝えたが、「愚痴だって、一つの会話ですからね」と、やはり事務的にあしらわれた。結局私は高いお金を払ってまで、ネイティブの愚痴を意味も分からず、ただ一方的に聞かされただけだった。何の罰ゲームなんだろう、これは。
その日の夜、私は布団にくるまり、号泣した。何故六年間も真面目に英語を勉強してきたのに、それがスピーキングやリスニングに活かせられないんだろう? 私が今まで習ってきたものは一体何だったんだろう? ごめんなさい、お父さん。一時的に借りているお金、無駄になりそう。こんなことなら、スクールに入らなきゃよかった。
それ以来、通学ペースが再びガクンと落ち、最終的には通わなくなった。それはジェームスへの恐怖感も一因ではあったが、それ以上に英語への自信をさらに失うことが怖かったのだ。結局自分には英会話は無理なんじゃないだろうか。その結論に達するのが怖かった。
最終的に私のレベルは3から5にまで上がっていた。しかし、それは緊張することがなくなっただけで、結局私の英語力は向上したようには思えなかった。現にジェームスを前にして、全くの無力だったではないか。講師におだてられて、ただ舞い上がっていただけだった。

通わなくなったことが再びバレた時、母は怒らなかった代わりに悲しい顔をした。辛かった。親を失望させてしまうことほど、親不孝なことってない。結局、未消化分のポイントは換算すると約十二万円分だった。しかし、その時は『惜しい』とは思わなかった。むしろ、『どうせ通ったところで意味がなかっただろう』という気持ちの方が勝っていた。そう、どれだけあのレッスンを続けていたとしても、私の英語の花が咲く気配は、一向に感じられなかったのである。

金沢 優 (著)
出版社: 幻冬舎 (2018/5/7)、出典:出版社HP

4「英語を話せるようになりたい。だって、カッコいいもの。素敵だもの」

もちろん、英会話スクールは他にも沢山ある。単にそのスクールだけが私に合わなかっただけなのかもしれない。私の英語力を開花させてくれる、素晴らしいネイティブ講師やスクールがあるはずだ。私はその後、体験授業を受け続けた。短期間だが、通ったスクールもいくつかあった。

しかし、私はどこに通っても、全く同じ問題に出くわした。それは、『上達を実感しない』ということだ。
確かにネイティブとのレッスンは為にはなる。英語に慣れていくような気もした。しかし、やはり私の思い描いていた『ペラペラ』には程遠く、『国内にいては話せるようにはならない』という気持ちの落ち込みが定期的に、まるでつむじ風の如く、丘の上からふっと襲ってきては、ものすごい勢いで私のやる気や自信を、根っこから吹き飛ばしていくのだった。こうして私は留学を真剣に考え始めたのだが、結局母には相談すらできなかった。スクールの失敗もあるし、何より母を家で一人にさせたくなかったからだ。

また、留学したところで英語がペラペラになる保証が一つもない、ということを周りからも聞いていた。結果を出すのであれば最低でも一年は必要で、しかもその場合は日本人が周りに一人もおらず、日常生活から学業まで、すべてのやり取りを英語でこなさなくてはならないような厳しい環境に身を置かないといけない、と学科の教授にもアドバイスを受けた。実際、留学をして失敗した人が周りにも沢山いた。そんな人たちを見ると、スクールの二の舞になりそうで、私は怖くて留学など考えられなくなってしまった。

それから私はハウツー本から表現集まで、何十冊もの市販のスピーキング教材を買い続けてきた。しかし、どれを使っても『自然と英語が口から飛び出す』ことなどなかった。
また、それと同時にリスニング教材も沢山試した。というのも、大学生の時にTOEICで九三〇点も取り(九九〇点満点)、英検だって準一級まで取得したにもかかわらず、ネイティブ同士のナチュラルな会話になると、絶望的に聞き取れなくなってしまうからだ。

もちろん、洋画や海外ドラマも字幕なしでは全く理解できない。恐らく資格試験と違って、対策が取れないからだろう。自分でも張りぼてのリスニング能力だと思う。『発音が良くなれば、リスニング力も上がる』という理論から、発音教材だって数多く試した。しかし残念ながら、私の耳に『英語が飛び込んでくる』ような奇跡体験は、やはり一度として起きた試しがなかった。

こうして私は英語を話せないまま、教師になってしまった。それでも学校でALTと毎日話していれば、いつかはペラペラになれるとも考えてはいたが、彼らは授業が終わるとすぐに帰ってしまい、驚くほど接点がなかった。結局最後の望みも潰えてしまった。

一体私はどこでどうすればよかったのだろう。思い描いていたのは、リスニングやスピーキングもネイティブ並の英語教師だった。こんな教師になったことを、父は今、天国からどう思っているのだろう。きっとガッカリしていると思う。私が再び英会話スクールをズル休みしていたことを知った時の母と同じ顔をしているだろう。せめて教師になるまでは、父に生きていて欲しかった。そうしたら、今まで怠惰だった私を叱り飛ばしてくれていたはずだ。

「英語を話せるようになりたい。だって、カッコいいもの。素敵だもの。カッコよく、素敵になりたい。生徒から憧れるような英語教師になりたい。この生き方を選んで正解だった、と父に胸を張って言いたい。そしてまた褒められたい。年を重ねたって、肌の張りを失ったってその気持ちは全く色褪せない。二十八歳になっても、私は夢を見続けている。

5「もしかしてなんだけど……『there』と『bear』を勘違いしていない?」

「それじゃあ、この英文を誰か訳してみて下さい」
私は黒板の『I have been to Kyoto twice.』を指さして、生徒たちに問いかけた。しかし、反応は全くなかった。全く分からないわけではないはずだ。何故ならこの文は先週軽く触れたからだ。それに既に塾で習っている子だって絶対にいるはずだ。

彼らと付き合ってきて、はや二カ月。私はまだまだ彼らとの距離を感じる。それは生徒たち同士も同じようで、見ていてまとまりがない。もちろん、仲の良いグループはいくつか存在はしているが、それらに繋がりがない。小さな輪がポツポツとあるような印象だ。ちなみに以前、休み時間のクラスの様子をチラリと見たことがあったが、それぞれが寝ていたり、自習をしていたりと、シーンと静まり返っていた。また、他のクラスに遊びに行っている者も多く、教室自体もスカスカだった。賑やかだった両隣の教室と比べると、活気のなさが一際目立った。

その時、ふと誰かの手がスッと挙がった。前の席に座る、月島葵さんだった。
「…….『私は京都に二回行ったことがあります』という意味だと思います」
着席したまま、月島さんは遠慮がちに答えた。
「正解です。ありがとう、月島さん」
ニコッと照れ笑いをしたその顔がなんとも可愛らしかった。月島さんは決して積極的に人前に出るタイプではない。体格も小柄で、スポーツは余り得意ではないが、学校成績は抜群で、特に英語の成績は学年トップを取ることもある。彼氏はいないようだが、男子の中には隠れ月島さんファンは少なからずいそうだ。
「それじゃあ今日は、この現在完了形の経験用法から学んでいきます」

私はカツカツと黒板に英文を書きながら、授業を始めた。背後から、気怠そうにノートを取り出す気配がした。
そして、授業も中盤に差しかかった時だ。私は黒板に書いた『I’ve been there.』といこう英文の、『there』という単語の日本語訳を再び問いかけた。しかし、やはり反応がなかったので、私はちょうど目が合った小山佑士君を指名した。
「えええ……マジ俺っスか?」

当てられた小山君は渋々と立ち上がった。大きい。身長は一七五センチはあるだろう。野球部のエースとしては十分な体格だ。去年、秋の大会でチームを優勝に導いた実績もあり、その時の勝利投手として、マウンドで左手の人差し指を天に向かって突き上げている彼の写真を見たことがあるが、本当にキラキラと輝いて見えた。

実際、甲子園の常連校でもある星心学園からもスカウトの声がかかっているらしい。甲子園でプレーすることが彼の夢であるため、なんとかそのスポーツ推薦枠を勝ち取ることが今の彼の目標なのだが、そのためには夏の大会で最低でもベスト8に残ることが絶対条件らしい。先週、一回戦をコールド勝ちで突破したと、野球部の顧問でもある山形先生が話していた。

そのため、彼の勉強意欲は極めて低い。いや、全くないと言っても過言ではない。彼にとって学校の授業は、部活が始まるまでの休息時間でしかないのだ。
「この単語、何度も見たことはあるでしょう?」
「見慣れぬ奴です」
嘘ばっかり。クラスから、クスクスと失笑が聞こえてきた。
「えっと……『彼らは、彼らが』」
「それは『they』だよね?」
「そっか……うーんと、『その時』」
「それは『then』でしょ?」
「マジッスか?」

私がマジッスか、だわ。本当にもう、このノーコンピッチャー。
それからも的外れな回答を繰り返した挙句、小山君は「じゃあ、分かんないッス」と言って、勝手に席に座った。私はふと、山形先生が「小山はあの雑な性格さえ直れば、もっと伸びるのになぁ」と嘆いていたのを思い出した。そうなのだ。彼にはきっと、正確さや慎重さが足りないのだ。行き当たりバッタリで計画性もない。マウンドの上でも恐らくそうなのだろう。

私は再び誰かを指名しようとクラスを見回したが、みんな一斉に下を向いた。何だか私、石化を恐れられているメデューサみたい。月島さんは挙手するかどうか悩んでいるように見えた。何度も答えて、優等生っぽく目立つのを恐れているのだろう。気持ちはよく分かる。それに、特定の生徒に頼りすぎも良くない。私は黒板の隅に書かれた日付を見て、

「えっと今日は六月一日だから、六引く一で、出席番号五番の人」
「えっ……ぼ、僕ですか?」
幼い声を上げ、ビクビクしながら立ち上がったのは、阿部祐助君だった。しまった、彼が五番だったか。引き算以外にするべきだった。

阿部君は声変わりすらまだで、身長は一五〇センチもない。体重だって四〇キロくらいだろう。体も弱く、去年は不良からお金をまき上げられるというトラブルもあったらしい。
ただ、一番の問題は成績で、いつも三組では最下位の常連だ。先日の保護者面談では、
「うちの息子が行ける高校はありますか?」と母親から重い相談も受けた。
「分かる? 阿部君。『there』の意味」

阿部君は少し悩んでから、ボソリと、
「……..『熊』、ですか?」
私は思わず、「はい?」と素の声で聞き返してしまった。周りからクスクスと失笑と、「ウソー」や「マジやばーい」などの女子グループからの悲鳴に近いものも聞こえてきた。
「阿部君、もしかしてなんだけど……『there』と『bear』を勘違いしていない?」
クラスのクスクス笑いが大爆笑に変わった。

「ありがとう、阿部君。あとでしっかりとスペルを見ておいてね」
私はさりげなくフォローをして、泣きそうになっていた阿部君を座らせた。
その時、また月島さんの手がスッと上がった。

「『there』は『そこに』って意味だと思います」
「ありがとう、月島さん」
ふー、助かった。絶妙なタイミングだった。きっと彼女は私の気持ちを読んでいる。情けないけど、クラスの中で彼女だけが私の味方のような気がする。
「それでは教科書の本文に入ります。三十一ページを開いて下さい」
気怠そうに生徒たちが教科書を開き始めた。それと同時に、「せんせー、教科書忘れました」、「せんせー、トイレに行ってもいいですか」、「せんせー、うちの猫が昨日いなくなりました」などの私語や笑いが挟まった。

ふと私は千賀子の先程の発言を思い出した。確かにその通りだ。この子たちに英語で授業をしても、分かってくれるわけがない。無理だ。そして、もしもそのレベルにまで持っていきたいというのであれば、それなりの英語力を小学生の段階でしっかりとつけておいてもらわないと、私たち中学校の教師が困る。

と、そこまで考えて、私はハッとした。こうやって、責任を前倒ししているだけじゃないのだろうか、日本の英語教育って。だとしたら、大変なのはいきなり重大責任を押し付けられた小学校の先生たちだ。英語なんて大昔のことで、チンプンカンプンな人もいるだろう。現場では大混乱になっているかもしれない。私だって嫌だ。もし、「今後、スワヒリ語の指導をお願いします。子供たちの将来はあなたにかかっているんです」なんていきなり言われたら。

一体、この国の英語教育は正しい方向に進んでいるのだろうか。私はため息を吐きながら、CDをかけた。ネイティブが発音する教科書の本文が流れ始めた。スピードがめちゃくちゃ速い。ところどころ聞き取れない。馬鹿じゃないだろうか、私。誰か私を救って。英語のない世界に連れて行って。無理ならもう一度鎖国をして。お願い。

6「何あれ?……Something strange.」

「今日は本当に疲れた~」
帰りの電車の中で、千賀子はつり革に掴まりながら、大きな欠伸をした。
時刻はまだ夕方の七時前で、外はまだ明るかった。大きな夕陽が眩しく、車内を鮮やかに茜色に染めていた。
私は家庭科部の顧問なので、運動部の先生に比べると早めに帰宅ができる。そのため、今年の部活の担当が決まった時は、空いた時間で英会話の勉強を本格的に再開しようと思ったものだったが、それを知った阿蘇先生から雑務を振られることが極めて多くなった。

たとえば先月の修学旅行では、なんと総合指揮の任務を振られ、旅行会社との折衝はもちろん、しおり作りやイベントの企画など、多忙を極めた。土日はもちろん、深夜でも進捗状況を逐一電話で尋ねてくる阿蘇先生には、精神が壊れそうになった。
こうして、阿蘇先生から振られた雑務もなく、千賀子が顧問を務める合唱部の活動がない日は、私たちは一緒に早上がりすることが通例となっていた。

「ねぇ、真穂。英会話のことなんだけどさー。ほら、オンライン英会話とかどうなの?最近流行ってるじゃん」
どうやら千賀子はあれからずっと、私の英語について心配してくれていたようだった。「うーん。私には……あんまり意味がなかった、かな」
「え? 『なかった』って、もう試したの?」
そう、去年のことだ。私はいくつかのオンライン英会話も試した。従来の英会話スクールと比べて、安くて自宅で受けられる点で、オンライン英会話は数年前から急激に利用者を増やしている。

私が試したものは講師が全員フィリピン人で、一レッスン二十五分当たり約二百円という、マンツーマンスタイルのサービスだった。ちなみにこの値段は、私が以前通った英会話スクールと比べると、約一○パーセントに当たる。価格破壊もいいところだ。
もちろん、短所はある。それは、彼らはネイティブではないということだ。アクセントに訛りがあったり、たまに文法にミスがあったりする。加えて、インターネット回線を通じてのレッスンのため、システム上のトラブルが何度かあった。

レッスンを受け始めた当初は、目新しさから前向きに臨めていたのだが、決められた対話集を読み合うというスタイルに効果を感じなかった私は、フリートークをお願いするようになった。そうすると一方的に講師が話し、私はずっと聞き役に回るようになった。これでは、ジェームスとのレッスンと全く変わらないと気付くまで、それほど時間はかからなかった。

結局仕事の忙しさも相まって、モチベーションも段々と落ち、レッスンを休みがちになった私は次月の更新をせず、そのサービスを終えた。その後、試しに違うオンライン英会話もいくつか体験したが、結果はやはり一緒だった。そう、『上達を感じられなかった』のだ。
「そんな私の失敗体験を聞き、千賀子は私へのアドバイスを諦め、「I’m sorry to hear
that.」と言った。
私は視線を窓の外に移した。夕陽がビル群の向こうに落ちかけており、まるでこれからの私の将来を暗示しているような気がした。

「その時だった。「ガクッ」と列車が急停車し、私たちの体が大きく横に揺れた。車内が騒然となり、私たちは窓から外を覗き込んだ。事故だろうか。そして次の瞬間、車内にア
ナウンスが流れた。
「えー、ご乗車の皆様にお伝え致します。ただ今、踏切内に人が立ち入ったとの連絡が入りまして、現在安全確認を行っております。もうしばらくお待ち下さい」
車内にため息と不満の声が充満した。やれやれ、何てことだ。今日は早めに帰って、単語テストでも作ろうと思っていたのに。

「何あれ?….Something strange.」
「え?」となった私は、千賀子が指さす方向に視線を向けた。
すると、『吉原龍子英会話教室』という看板が、ある雑居ビルの三階にかかっているのが見えた。今まで二年間、毎日この列車に乗っていたのに、初めて見た看板だった。といっても、この区間はいつもノンストップで駆け抜けているので、それも仕方のなかったことかもしれない。
しかし、このご時世に自分のフルネームを教室名に入れ込むなんて、時代錯誤じゃないだろうか。もっと横文字を使った、お洒落なネーミングもあっただろうに。看板自体も古いし、汚い。まだ運営しているのかも怪しい。

「なんか……怪しさ一○○パーセントって感じ」
プププと千賀子は口元を押さえた。確かに怪しい。怪しすぎる。何で英会話業界って、こう怪しげなものが多いんだろう。やれやれと思い、視線を戻そうとした私だったが、教室名の下に書いてある、長ったらしいキャッチフレーズのようなものに、ふと目が留まった。
『もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになると思いますか?』
何なんだろう、その意味は。私はその文言を心の中で反芻した。変なキャッチフレーズだ。何の意図があって書かれたのだろう。妙に私の心に残った。

金沢 優 (著)
出版社: 幻冬舎 (2018/5/7)、出典:出版社HP